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 もう、八月も終わりかと言う頃。
 男の子は、河童の異変に気付きました。普段なら胡瓜を嬉しそうに食べる河童が、その日は一かじりしか、しなかったのです。そして、それ以来、河童は食べ物を口にしなくなりました。男の子が無理に勧めると、河童は食べようとするのですが、すぐに止めてしまって、その小さな首を悲しげに振るのです。それでも、悲しげな男の子の姿を見ると、河童はくーっは。と独特の拍子で謡いだし、男の子を笑わせてくれました。
 男の子も、元気の無い河童に、河童の楽しそうに踊った曲をかけてあげました。

 けれど、衰弱は明らか。
 河童は日を追う毎に、どんどんとやせこけていきました。

「水が、いけないのかな」
乾きがちになる頭のお皿に、ミネラルウォーターをかけてあげながら、男の子は呟きました。河童は気持ち良さそうに目を瞑り、男の子の用意した水槽の中で、石に腰掛けています。
 男の子は気付いたのです。
 水道水ではなく、ミネラルウォーターをかけてあげると、河童の調子が良くなる事に。男の子は次の日から、水槽の水を全て、ミネラルウォーターに替えました。
 大量にミネラルウォーターを買い込んだ男の子を不信がって、お母さんは男の子を問いただします。
「そんなに大量の水をどうするの?」
「うん、この水を沢山飲むとね、頭が良くなるんだって」
 男の子は笑って答えます。河童と一緒に暮らし始めてから、男の子は物事を素直に受け止める事が出来るようになりました。その為か、お母さんとお父さんも余り喧嘩をしなくなりました。どうしてか、河童の、あの小さな丸い目を見つめていると、男の子の苛苛した気持ちや悲しみは消えていったのです。
 だから、男の子はどうしても河童を元気にしたいと思っていました。
水槽の水を全部ミネラルウォーターに替えてから、河童は元気になりました。胡瓜だって食べるようになったのです。

 けれど、長くは続きませんでした。


 それどころか、河童の衰弱は益々酷くなっていったのです。
「く〜かっぱ」
 男の子が河童の心配をするたび、河童は無理に身体を動かして、自分は元気だ、と誇張するかのように踊ります。ふらつく、その小さな足を片方上げて、手を叩いたり、跳ぶまねをしてみせたり。その姿は滑稽さを通り越して、痛々しい物でした。けれど、男の子はその姿を見ても尚、河童を手放そうとはしませんでした。
 河童の優しさに甘えていたのです。

本当はもう、とっくに
泉に返さなければ死んでしまうのだ、と。
男の子は気付いていました。


 そして、八月最後の日がやってきました。冷たく冷やされた男の子の部屋で、河童は、ただ、水槽の水の中に浮いていました。もう歩く事も、泳ぐ事すら出来ない状態でした。弱弱しく、何事か鳴く様な仕草をしては、その小さな目を、だるそうに二、三瞬かせるだけなのです。
 その水槽の横で、男の子は机に伏して、泣いていました。もう、水を替えても、栄養剤を与えても、何をしても、河童は元気になりませんでした。
 日差しを遮るカーテンが、午後の風に揺れています。男の子の髪を、風が撫でて行きました。
と、男の子の耳に、ぺたぺた、と触れる小さな手。男の子ははっとしました。恐る恐る顔をあげると、そこには、あの小さな生き物が立っていたのです。水槽の中で、もうろくに動く事すらままならなかった、河童が、水槽を出て、机の上に立ち、男の子を見つめているのです。
「あ…」
 男の子は、目を見開き、河童を見つめました。見つめ返す、小さな黒い目は、優しい光に満ちていました。
「…元気に、なったの?」
 掠れる声で男の子が呟くと、河童は、くーかっぱ、と鳴きます。
 その声は、河童が元気な時のものでした。
「元気になったんだ!」
 男の子は喜びました。手を叩いて、満面の笑みで嬉しがりました。

 けれど。

 喜ぶ男の子の傍らで、ぱしゃん、と、水が弾ける音が聞こえました。

 男の子がそちらを見ると、そこには小さな水溜り。
 河童の姿は、もう何処にも見当たりませんでした。


 男の子は、深く深く悲しみました。しかし同時に、よく分かっていたのです。

 河童の体がもうずっと前から限界だった事を。分かっていながら、男の子は河童を泉に帰そうとはしませんでした。先延ばしにしていました。

 いつか、いつか、と。
 その結果が。

「ごめんね…」
 小さな河童と同じくらい小さな水溜りを、大切に大切に両手で包んで、男の子は静かに涙を零しました。
「ごめんなさい…」
 ほたほたと机に落ちる温かな雫は、見る間に水溜りに。
 透明なそれと、河童の色を映したかのような、浅黄色のそれ。


 男の子は立ち上がると、部屋を出、水筒を持ってきました。そして静かに、静かに、浅黄色の水溜りをその中へと移していったのでした。


 がさがさ、ごそごそ。男の子は、今、あの水筒を持って、山道を登っていきます。

 家族はこの場所にはいません。
 一人で来たのです。
 九月に差し掛かった山は、まだ夏の匂いを色濃く残し、陰影の濃い緑と、金の光が景色に踊っていました。一ヶ月前より更に伸びた草が、低木が、男の子の視界を遮り、男の子を迷わせます。巨木は彼に木陰を与えてくれましたが、同時に彼の足を絡め、男の子を地面に叩きつけました。滑る足元を何とか堪え、男の子はよれよれと立ち上がります。

 もう何度転んだでしょう。
 彼の肘や膝には幾つもの掠り傷や切り傷が。方向の分からない夏の山奥を、それでも男の子は一心腐乱に登り続けました。
 やがて、金色の光が辺りを満たす頃、男の子の耳にあの泉の音が。疲れ果て、ぐったりと地面に座り込んでいた彼は、その音に、首を巡らせ、もう一度立ち上がりました。
 あの時と一緒です。
 音のする方へと男の子が進んでいくと、唐突に、光。
 暮れ色の満たす景色の中で、光を受けてこんこんと湧き出でる金色の泉。その縁に、かつてはあの小さな河童が腰掛けていたのです。
 楽しそうに謡って、暮れゆく空を眺めていたのでした。
 男の子の目に涙が溢れます。ここから見る空の色の何と美しい事。その楽しみを男の子は奪っていたのです。男の子は暫し肩を震わせて泣いていました。
黄昏が、夜に取って代わる少し前。男の子は泉の縁へと近づきました。今まで流していた涙を乱暴に片手で擦って、水筒の蓋を開けます。中の水が、微かな音を立て、空気に触れました。その水筒をそっと泉に傾け、男の子は静かに、中身を、流しいれました。ちょろちょろと小さな音を立て、浅葱色のそれは泉の中へと戻っていきます。

それだけでした。

男の子は目を見開き、そして、唇をかみ締めて、笑いました。
「…変わるわけが、ないよね」
かみ締めた唇から、嗚咽が漏れます。みるみると溜まり、頬を伝い落ちる涙。赤く腫れた目元にその雫は痛みをもたらしましたが、けれど止まりません。泣いても泣いても泣き足りない事を、そして謝っても謝っても謝りきれない事を、男の子は河童にしたのです。取り返しなどつくはずがありません。
全て、今更でした。
「ごめんなさい…」
男の子の口からはその言葉が、知れず漏れていました。

暮れ色の中、こんこんと涌き出る泉の音。俯き、佇む男の子を照らす光は、序序に輝きを失っていきます。男の子は、もう帰らなければなりません。
「………」
最後に彼は、顔を上げて泉の縁を見つめました。そこにはただ、縁があるだけ。

そこに誰が、いると言うのでしょう。


一体何が、あると思ったのか。

河童を、あの水溜りを泉へと帰せは何かが変わると、男の子は心の何処かで期待していました。

変わる訳が無いのです。

もうどこにも。


あの河童はいません。




いるはずが無い。




男の子は、静かに踵を返し、山里へと帰っていきました。

男の子は大人になりました。けれど、この涙色の記憶は、男の子の中で今も尚、消える事はありません………









                               






後書き。
出した物はどんでん返しと見せかけてより男の子に救いが無いです。
今回はあらゆる意味で救いが無いです………。
確か、取り返しがつかない、をテーマとしていた気がします。
…………
中途半端な話だ!(うわ逃げt
有難うございました!!