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喜ぶ男の子の傍らで、ぱしゃん、と、水が弾ける音が聞こえました。
男の子がそちらを見ると、そこには小さな水溜り。


それだけが、蟠っていました。




涙色の思い出













 若葉の色濃く茂る季節の出来事です。ある男の子が、夏休みに、家族で山のキャンプ場へと出掛けました。

 男の子にとっては初めてのキャンプです。

 興奮を隠しきれず、つくや否や、午後の日差しの中お母さんの静止を振り切って、男の子は早速、キャンプ場を散策し始めました。人の家のテントを覗いたり、水汲み場で水と戯れてびしょ濡れになったり。繋がれていた大人しそうな犬の頭を撫でてやれば、犬は尾っぽを振って、男の子の手を舐めてきました。
 しかし。

 「何をやっているの!」
 男の子が何かしら遊びだす度に、彼のお母さんの怒鳴り声が後を追いかけてきます。男の子は知らん振りをして、次の場所へと遊び場を移していきました。
 聞かなくとも、内容は大体想像がつくのです。

 そんな子供みたいな事。
 それより持ってきた宿題をやりなさい。
 それに学校の日記は良いの? 折角その為に家族揃ってこんな山奥へと出かけて来たのだから時間が勿体ないでしょう?
 遊んでいる暇があるのなら早くやってしまいなさい。

 何べんも何べんも、車の中でしつこく言われた言葉。お母さんは早く帰りたいんだ、言葉の裏に潜む本音を読み取って、男の子は苦い気持ちを飲み込みました。
 「おい…やめろよ…人が見てるだろう?」
 お母さんの醜態に、見かねたお父さんがお母さんを止めようとしましたが、お母さんは止まりません。お母さんの怒りようは、男の子の為、と言うより、自分の為の我が儘にしか男の子には聞こえませんでした。

 お母さんとお父さんは、いつも仲が悪いのです。

 やがて、お父さんの怒鳴る声と、お母さんのヒステリックな喚き声が、キャンプ場へと響き渡りました。
「周りが騒ぐ! みっともないだろう!」
「何よ! あの子が周りに迷惑をかけるから悪いんでしょう!! 宿題をやらずに遊んでばかりいるから!! 貴方はただ見てるだけだから良いわよね!」
 何事かと、他にキャンプをしている家族が、テントの中や、水汲み場から集まってきます。そのとばっちりを受けまいと、男の子は知らん振りで二人から離れていきました。
 「まただ」
 走りながら、男の子は小さく呟きました。
 気付いているのです。お母さんは自分の為だけに男の子を叱り、お父さんは、そんなお母さんがみっともなくて、怒鳴るのだと。
幼い頃には気付かなかった事が、歳を経るにつれ、男の子の目に付くようになりました。否、元からそうだったのかもしれません。その意味を、読み取るだけの力を手にしただけなのかも。
 男の子が振り返ると、お父さんが、お母さんを無理矢理にテントの中へ押し込んでいる姿が、遠くから見えました。

 帰りたくないな…

 キャンプ場の端まで来て、男の子は足元の小石を一つ、蹴りました。まだ帰りたくない。見渡せば、幸いな事に、アスレチック場の看板が。
 男の子は迷わずその中へと入っていきました。
 アスレチック場は、とても面白い遊び場でした。ただ、目の前で、無邪気に笑う他の家の家族の姿を見ていると、男の子の中にあった楽しさは、跡形もなく無くなってしましましたが。
 男の子は、酷くやるせない気持ちでいっぱいになりました。

 気分を変えようとアスレチック場を離れ、男の子はとぼとぼと歩き出しました。
 キャンプ場へは近づきたくありません。
 ふと、目に入った立ち入り禁止の看板。男の子は興味を覚え、じっと、その看板を見つめていました。
「駄目だよ。その中にはいっちゃ」
 男の子が振り向くと、そこには機材を抱えた作業服のおじさんが立っていました。
 男の子は、真ん丸い目でおじさんを見つめました。首にかけた手拭で顔の汗を拭きながら、キャンプに来てる子だね? とおじさんは笑います。
「もうすぐ日が暮れるよ。お母さんやお父さんの所へ帰りなさい」
 そう言って、男の子の頭を撫でた後、おじさんはキャンプ場の方向へと歩いていってしまいました。
 お母さんや、お父さんの所…
 その言葉が、男の子の胸を抉ります。

 なんにも、知らないくせに
 男の子は、看板の先へと足を踏み出しました。

 がさがさ、ごそごそ。青葉の茂る山の中、道無き道を男の子は進んで行きます。看板の先は行き止まり。その崖を何とか上って、男の子は森の中へと入っていったのです。どれ位歩いたのでしょうか。辺りは暮れ色、深い橙に染まっています。男の子の背の高さ位に伸びた草や、巨木に巻きつく幾重もの蔦の葉、低木は時に男の子の剥き出しの肌を傷付け、血が滲む事さえ。それでも、男の子は奥へ奥へと進んでいきました。
 「くわーぱ」
 どの位進んだでしょう?こんこんと水の湧き出る音と共に、小さな、鳥の鳴き声の様な音が聞こえてきました。ふらつく足を何とか奮い立たせ、男の子は声のする方へと、足を運びます。水の音が、段々大きくなっていきました。
 唐突に、視界が開け。
「くわゎーゎっぱ」
 果して。そこには何か、雨蛙の様な色をした小さな生き物が、泉の縁に腰掛けて、木々の間から、暮れゆく夏の空を眺めている姿がありました。男の子は吃驚して、目を何度もしばたかせ、擦ります。

 その生き物は確かに、そこにいたのです。

「ぱ〜ぱっくーっぱ」
 恐る恐る近づけば、その生き物は男の子の中指ぐらいしか無い事が分かりました。頭に小さなお皿を乗せている事も分かりました。背中にある、濃い緑の、あれは亀の甲羅でしょうか?さっきから、その生き物は何かの節をつけて鳴いている様です。
 謡っているみたい
 男の子は不思議そうにその生き物に魅入っていました。その生き物は、男の子に気付きません。楽しそうに節をつけ、身体を揺らしながら空を眺めているばかり。

男の子は急に、この小さな生き物が欲しくなりました。

 生き物を自分の水筒の中に押し込み、泉の水を入れて、男の子はキャンプ場へと戻りました。男の子の戻る頃には、お母さんとお父さんの喧嘩にも一段落がつき、男の子はその日、二人の作ったカレーを食べた後、宿題に取り掛かりました。
 キャンプが終わり、家に帰って、自分の部屋に入ると、男の子は静かになった水筒の蓋を、そっと、開けてみました。水筒の中から、水音。中ではあの小さな生き物が水面から顔を出し、男の子を見上げています。
 車の中で、この生き物は河童と言うのだと男の子は知りました。珍しく、お母さんが教えてくれたのです。
「どうしたの?急にそんな事聞いて。…まさか、あのキャンプ場で見かけたとか?」
 帰れることが嬉しいのでしょうか、楽しげに答えてくれたお母さんに、男の子は笑って、本で見たんだ、と言いました。
 男の子のリュックの中、水筒の中からは引っ切り無しに慌しい水音が聞こえていましたが、男の子は気がつかない振りをし続け、お母さんもお父さんも、その音には気付きませんでした。この生き物を、河童を捕まえたお陰でしょうか、男の子の帰路は楽しいものとなりました。
 けれど。
 男の子の部屋の中、蛍光灯の明かりの下で、無理矢理捕まえられた河童は、何処か困惑気味に男の子を見つめていました。緑の顔にある、二つの小さな黒い目が、悲しそうに光を湛えています。
 その目を見た途端、男の子は泣きたい気持ちになりました。
「ごめんね」
 男の子が話し掛けると、その生き物は小さな首を傾げます。
 車の中ではあんなに暴れていたのに…
 肩を落とし、小さな身体を更に小さく丸めた河童の姿は、男の子を悲しませるだけでした。
「水筒には、あの泉の水を入れてきたんだ。水槽だって毎日洗うし、水だって毎日替える。あの泉みたいに、下に小石を敷き詰めて、緑でいっぱいにだってするから…だから……」
 男の子は、気付けば早口にそう言っていました。男の子の河童を見つめる目には涙が。ぽろぽろと、止まらないそれを何度も擦りながら、男の子は、河童に頭を下げました。
「だから、お願いだよ。…そんな顔を、しないで」
 ここにいてよ。そう言って、泣き崩れる男の子を、河童は困った様に見つめているだけ。
 実際、河童には、何が何だか良く分かっていませんでした。ただ、今まで住んでいた所とは、又違った所に連れて来られた事だけは分かっていました。
 河童は男の子の部屋をくるりと見渡します。何だか良く分からない物ばかりが立ち並ぶそこは、けれど酷く、寂しげだと、河童には思えたのでした。


 男の子は、河童に約束した事を懸命に守りました。また、お母さんやお父さんが、不用意に自分の部屋に入って来ない様に、勉強もきちんとしました。河童は、自分に悪意のない男の子を、次第に受け入れていく様になりました。
 男の子が好物を調べてくれたのでしょう。河童は、小さく切られた胡瓜を、男の子と一緒に食べたりもしました。又、河童が、男の子のかける音楽に合わせて踊りだすと、男の子は手を叩いて喜びました。
 河童は男の子の楽しそうな顔が、男の子は河童の楽しそうな姿が、大好きでした。

 けれど。



 そんなに上手くいく筈が無かったのです。